市村鉄之助~市村鉄之助~安政元年(1854)~明治6年(1873)11月16日没24歳美濃大垣出身。慶応3年10月兄辰之助(弘化元年1844生れ)とともに入隊。 両長召抱え人として土方さんの小姓を務めた。 鳥羽伏見の戦い、そして会津、箱館まで転戦した。 田村銀之助、玉置良三とともに土方の小姓を勤める。 流山で近藤さんが投降したとき兄・辰之助は脱走。 その後なんと大垣藩に投降し官軍側の一員となり宇都宮では敵・味方として戦ったらしいのだ! 鉄之助は流山から会津へ直行したものと思われる。 その後も非戦闘員として土方さんに従軍、箱館へ 箱館戦争終結直前4月15日(5月5日説もある)に土方の命で戦地を脱出し、横浜行きの商船に乗った。 この船には竹中重固も乗り込んでいたらしい。 鉄之助らが乗った汽船が横浜港に着いたのは5月下旬。 一緒に乗船した竹中が大垣藩に自首したのが28日と言うので、その頃鉄之助は残党狩りの目をかわすため乞食に身をやつして日野の佐藤彦五郎宅を訪ね、歳三の遺品を届けた。このとき現存する写真とともに遺髪も届けたと伝えられている。 そして、大切な土方さんからの伝言も伝えたのだ。 そのまま佐藤家に匿われ、剣術や学問を学んだという。 明治4年故郷の親戚を頼り横町吉右衛門こと安西平助(井上源三郎の実兄)に付き添われ大垣へ帰った。 最近の調査では大垣へ帰った鉄之助は辰之助と再会、市村家は章典士族に列せられ田町に屋敷を拝領された。鉄之助はこの屋敷に兄と一緒に住んでいたらしい。 明治5年辰之助が病没、記録では26歳だったというが29歳では? 鉄之助は兄の子久吉の後見人となるが明治6年(1873)11月16日24歳でこの世を去った。 死因は伝わっていないが市村家代々の菩提寺である全昌寺に過去帖が残っているという。 戒名は「養浩院廓然良機居士」 (「新選組読本~隊士外伝2」あさくらゆう)より 「病死」「戦死」どちらにしてもやっぱり若くして亡くなってるんだね。 宇都宮で土方先生と戦った辰之助とどうやって折り合いをつけて一緒に暮らしたの? 戦争が終わっちゃったらそんなのはもうどうでもいいことになっちゃうのか…。 |